平成21年 参拝して想う(休憩所のノートより)
ソ連に抑留された叔父(母の弟)は、昭和20年終戦後、病院で戦病死致しました。
最近は、こちらに来る機会もあまりありませんが、以前は毎年靖国神社およびこちらに参拝に来ました。本年、50周年おめでとうございます。墓苑担当の方に分からないことを教えて頂き有難うございました。
21.1.1 富士見市 N.K
父が硫黄島で戦死、いつか母と一緒に行ってみたいと思っていましたが、母が亡くなり私も65歳を過ぎました。戦争は、悲しいと思います。
21.1.1
父は、私が生まれる前に硫黄島で昭和19年12月24日に戦死しました。
翌年の1月6日に私は、生まれ、父の顔は、知りません。父と母は結婚して10日足らずで戦地へ。硫黄島には、三回、入間から2回、舟で一回行きました。父は、海軍でしたので、笠原丸での渡島は、本当に感動致しました。海軍で亡くなった方は、骨は帰って来ません。無駄な戦争で命を亡くすという悲しいことがあってはいけない。平和な日本であるよう願うものです。残された母は今年90歳半身不随で自分のことは何でも出来ますが、父のことは、一言も教えてくれません。いつまでも苦労したぶん長生きして欲しいと願っています。
21.1.4
83歳になります。おかげさまで夫婦共々元気です。
この「生」ある物すべて、この地に眠る皆様のおかげです。「有難うございます。」
この感謝に気持ちをご報告すべく年の始めに、この地に立ち御礼申し上げる次第です。毎年参拝しておりますが初めてペンを取りました。
21.1.6 I.T
正雄おじいちゃん
皆、元気で過ごしています。心配なさらないでね。どうぞ安らかにお眠り下さい。 21.2.4 K
春雄おじさん ソロモン島からもう帰って来ましたか?貴方によくして貰ったよし子です。また来ますね。母も会いたいと思います。
21.2.11 Y
心が静かになりました。私達のご先祖様安らかに 21.2.11 N
42年間海上保安庁に努めて来ました。 三月退職前に参拝出来て感謝しています。有難うございました。心が洗われる気持ちがします。 21.2.27
お正月二日にも参拝させて頂きました。
市ヶ谷八幡さんから靖国神社へ。15時頃というのに長蛇の列。パスして千鳥が淵へ。
15分いましたが三組の人々のみ。靖国さんとあまりにも違うので驚きました。これは、重大な国の国民一人一人の問題である。右・左関係無く国の歴史観が無い故にこんな現象になるのです。幼い時からの歴史教育をきちんと行い、健全な国家観を持って欲しいのです。
あの世にもこの世と同じ格差あり、靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑
21.3.3 T・A
忘るな昭和18年3月3日
ダンピールの英霊に捧ぐ
21.3.3
年毎に戦争体験者は少なくなります。
その一人で齢90歳を目前に生きながらえて来ました。ここへ来る度に若くして散華した戦友達一人一人の顔を鮮明に思い出します。
21.4.9
父と叔父と従兄弟の三人が戦死しておりますが、東京に住んでいるのは、私一人なので親戚を代表して毎月お参りしています。いつ来ても綺麗にして頂いて感謝しています。有難うございます。
21.4.24 O・F
義父は、主人が3才、弟が3ヵ月の時ビルマで戦死、母子で共に苦労の毎日だったとの事。毎月の墓参り、毎日の仏壇へのお祈りは続けています。一度、千鳥が淵にお参りさせて頂きたいと思っていました。やっと来ることが出来ました。涙がこみ上げて来ます。安らかに。
21.4.26 S
お父さん、会いに来ました。お母さんは、92歳となりました。ここに来るとやっぱり悲しいです。
21.4.6 T・S 長女M
ドレビアンナ・チタ州カダラ52分所第一収容所で、56人の戦友が亡くなった。お骨は、大部分が各生家に還ったが、幾柱かはここに眠っている。同収容所で、ここにきた者は私が、最後だろう。静かに眠られることを願う。合掌
21.5.12 T・S 85歳
イラワジの川面にうかみてアラカンの
山辺に果つる夕日拝む
21.3.21 Y・Y
海外からのご遺骨の帰還が未だなされないでいるには申し訳なき事であります。生きていればどんなことでも体験出来たでしょうに、戦死された皆様に深く哀悼の意を捧げます。 21,5,16 57歳
先日、初めて、この墓苑を知りました。
ビルマで戦死した父を、日々の生活に追われて、との言い訳で今まで何のお参りもせず本当に父には申し訳無く思っています。なぜもっと早く、ここに父がいることを感じ無かったか、後悔しています。
母は、93歳で亡くなりましたよ。父の三倍生きました。母は、朝鮮から3人の子供を連れて引き揚げ、本当に苦労しましたよ。お父さんに会いたいよ。
6.16 M・S
昨年10月シベリアに墓参し、ここ千鳥ヶ淵に安らかに葬られている、と聞きお参りに来ました。65年ぶりです。妹弟元気に暮らしています。ご安心下さい。 6.20 S・M (77歳)
父に会いたいです。
父保坂秀男は、昭和20年6月、アンダマリ諸島の南アンダマン・ポートプレアでマラリアにおかされ戦病死(30歳)したと聞かされています。よく覚えていた父の顔や声もそのままで68歳になりました。遺骨収集され墓苑内で眠っている方々はまだ幸せです。私には全く形見がないのが残念でたまりません。「啓子」父がつけてくれた名前大事にしています。
21.6.27 H・K
父と叔父の遺骨をお守りいただき心から有り難く感じます。
どうか、今までの私の親不孝を見逃して、家族を見ていて頂きたい。 ビルマ戦死者の遺児 K・S
父増田勇は、昭和20年7月24日ビルマにて戦死。初めて父の命日に来ました。
親不孝をお許し下さい。これから先、出来るだけ参拝します。ここに遺骨があると信じています。どうもありがとうございます。
21.7.24 横浜市 M・S
今、私が大学で勉強していられるには、あなたたちのおかげです。命を大事に最後まで生きようと思います。
21.7.24
昭和20年8月1日付戦死公報で父はフィリピンで戦死したことになりました。
もちろん遺骨ではなく、父の顔も知りません。私は、50歳を過ぎてから、ここに参らせて頂くようになり、父もきっとここにいると思えるようになりました。皆様の犠牲の上に、平和な64年の歳月が流れたことを心に刻み、後生に残したいと思います。
21.8.6 K・K
大変な犠牲の上に、今の平和な生活があると感じます。どうしたら前大戦を伝えゆく事が出来るでしょうか
21,8 H・Y
一郎おじいちゃんやっと、ここへ来られました。遠く厳しい寒さの中、どんな想いで亡くなったのか考えると、いたたまれません。やすらかにお眠り下さい。 21.8.12 D
硫黄島の兄さん、今日会いに来ました。安らかにお眠りください
21.8.15 S
インドアッサムに眠られる兄上様、いつも心を痛めております。家族皆元気でおりますので、ご安心して天国においておやすみ下さい。
21,8.16 妹T
遠いレイテ島で戦い、母と私を残して逝く時、日本万歳天皇陛下万歳と言ったのでしょうか?母85歳、私65歳、優しい夫と二人の子供達と元気に幸せに暮らしています。
母の手紙には、私が1歳になったばかりの頃、戦地に向かう時の様子、胸に抱いて離れなかった事等書いてありました。お父さんの死が無駄にならない様、憲法9条を守ること、しっかり心して頑張って逝きます。見守っていて下さいね。
21,8,23 娘A
ブーゲンビル島で亡くなった叔父さんへ初めて参拝しました。昨日が叔父さんの命日でした。娘と共に参りました。ブーゲンビル島へは、慰霊に行きましたが、現地では独立軍がいて途中までしか行けませんでした。叔父のお骨は今一体どこにあるのでしょうか?悲惨で無念の思いで亡くなった叔父の魂が、どうぞ安やかに眠って下さい。お祈りしております。
21.8.29 K
今日は、お父様の命日です。
最近になって祖母の苦しみ、悲しみが理解できます。戦争で亡くなられた方々のお陰で平和になった私たちの生活。本当に有難うございました。6歳の時にお別れしてよりもうすぐ73歳になります。感謝の気持ちでいっぱいです。お父様のお骨が祭られていると信じながらお参りしています。
21.9。2 N・F
今の日本があるのは戦死した皆様のお陰です。有難うございます。忘れないで生きて行きたいです。
21.10.3 T・K
現世に取り残されて 千鳥ヶ淵 戦没者惜しむ 秋たけなわ 21.10.19 T・K
今、日本が平和でいられるのは、先の大戦で 我が国のために尊い命を犠牲にしてま
で守って下さった戦没者方々のお陰です。本当に有難うございました。安らかにお眠
り下さい。
21.11.21 T・G
父上さまへ
風吹けよ 波とどけしや
尺八の音 みたま眠りし レイテの島へ
21.11。21 T・G
ビルマで戦死した父の遺骨は、この千鳥ヶ淵にあるものと信じWeekdayは、ほと
んど毎日昼参拝に来ています。
21.12.18 横浜市M・S
忘れてはならない戦争の歴史を思う時、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は大切なところであり、一人でも多くの方と共に何度でも訪れたい。
21.12.19
「有難うございます。」感謝と申し訳なさが入り交じって、ただ頭をたれるのみです。私も第4航空軍直轄の偵察隊長としてマニラにいました。84歳、毎年年の初めに墓苑にお参りしています。どうぞ安らかに。