平成20年 参拝して想う(休憩所のノートより)
六十四歳になって初めて参拝しました。
六十四歳になって初めて来ました。遅くなったけど、やっと父のお墓に来ることが出来嬉しく泣けてしまい涙が止まりません。生まれて三ヶ月しか(父の温もり)胸に抱かれたきりです。ずうっと苦労の人生、今でも苦労しています。何故死んでしまったと思ったことも何度もありました。今は、明るく悩まず前向きに私の残りの人生歩んで行くつもりです。戦争は二度とないようにして下さい。
20.1.2 M・C Y・S様
貴方の孫、健一が四月始めにイギリスから帰って参ります。一度是非ここに参らせます。どうぞお守り下さい。
20.1.7 M
父はどんなにか無念だったか
通訳として東インド洋アンマンにて終戦の二ヶ月前に、2歳の娘を残して亡くなった父。どんなにか無念だったか悔しい。 20.2.11 Y
日本の国の為に本当に有難う
戦争という状態からは、真の善悪は、つけにくいと思いますが、国の為に清き命を捧げて下さった方々が一生懸命頑張ってくださった事に、感謝する心、安らかにと思う心だけは、ここに来たら手向けたく思います。日本の国のために本当に有難うございました。神仏の国にてなお一層皆様の素晴らしい所が輝いて行かれます様に。 20.1.2 御英霊へ
国のため清き尊きますらおをかたじけなくも平成で知る。
太平洋の島々で亡くなられた我が国の英霊様は、どんなにか日本の土を踏みたいと思われながら亡くなられた事でしょう。たとえ体は、亡くなられても魂は、永遠の世界で我が国の未来をご心配下さっていらっしゃる事と思います。亡くなられた皆様が苦しかったこと、悲しかった事から解放されて、それぞれの方々の望んでおられる魂の世界で、ご幸福になられますことを祈り続けたいと思います。
20.2.21 H・M
雄三様
娘の千代子です。今日は、平成16年秋よりスタートしてから四回目の参拝になります。夫も、初めて一緒に参拝しました。安らかにお眠り下さい。千鳥ヶ淵の桜の素晴らしさに驚いています。本当に有難うございました。今度は、83歳になる母も連れて来たいと思います。 20.4.1
吾が兄よ安らかに眠れ!
今も胸の中に幼き頃の想い出がうずまきます。 20.4.1
兄の遺骨が入っているかと思い参拝
誰のものとも分からない髪の毛しか戻ってこなかった兄の遺骨が入っているかなと思い参拝しました。今度、皆でする朗読「千鳥が淵に行きましたか」を今回の事を参考にこころを込めて、練習したいと思います。
20.4.7 朗読の会 麻の実
私達の思いが届いたでしょうか
今日の参拝は、姉と私にとって亡き兄への最大の供養となりました。私達の思いが届いたのでしょうか。
戦後60余年ニューギニアの様子は、余り報道がありませんでした。朝日新聞に掲載され国の方でもお世話して頂いてることを知り胸をなで下ろしました。帰りましたら、両親の墓前にも報告させて頂きます。有難うございました。
20.4.9 フィリピン・ルソン島バギオに散りし君
命日に参上、感無量、またお会いしましよう
20.4.26Y・K
いつ来ても心が痛みます
もっと人々がお参りに来て欲しいです。花見の頃よく来ました。終戦記念日ぐらいお参りして貰いたい。
20.5.1
父よ安らかに
父よ!母もそばに行ってしまいました。母は苦労しました。貴方と同じ。二人で仲良く、みんなを見守ってくれていますか。どうかお願いします。安らかに! イナも今日は、森田から慰霊のために来てそばにいますよ。
20.3.5 R.M
兄貴 お参りさせて頂きました。
ちょうど65年前の今月30日頃、部隊は、満州に派遣されたのでしょうか。年老いた父親もお袋も、未練がましいことは一切言わず、靖国神社にはよく参拝していました。兄貴、苦しかったでしょう。ニューギニアには私も行き、あの頃の兵隊さんの切なさ、疎ましさを推察しています。あの過ちは、二度としてはならない。戦争は、人間としての罪悪です。許して下さい。私の力のなさを。兄貴のことは忘れていません。
20.3.3 Y. A
毎年父の永代供養に夫婦で参ります。
今朝早く、新幹線で東京へその足でここへお参りしました。 毎年義父
の永代養に夫婦で来ています。年に一度ですが来る度に深い感謝の気持ちと多くの戦死者のことを思うと胸にジーンと来るものがあります。東京へ出かけて来る体力は、いつまで続くか分かりませんが、続く限り上京して参りたいと思っています。
岐阜 20、3、13 K夫婦
皆様のご遺骨を集めさせていただいてから早35年が過ぎます。
丁度初めてのサイパンでは、亡き人と同じ年齢でした。まだまだ多くのご遺骨が各地に残っております。時代は、移って行きますが、皆様のことは、忘れないように後生に語っていきたいと思います。 20.6.8
いつも有難うございます。安らかにお眠り下さい。
1.5.1 A.S
フィリピンで戦死した叔父
(故山部因氏)を想い参拝しました。昭和20年6月19日のことでした。 20.7.20 Y.C
平和の重要性を実感する。
We will do our best to protect from war, to stop war and preserve prosperous life.
20.7.1
お国の為に大切な命を捧げていただき心より感謝を致しております。
英霊様が苦しみや悲しみから解放されて魂が癒され、それぞれの方々が望んでいらっしやる魂の世界でご幸福になられますように!
N・J
幾度となく母と一緒にお参りさせていただきました。
その母も今月93歳で他界致しました。お父さん!母は、父の分まで立派に生きて、私たちに手本を示してくれました。
今頃、父と再会し、父に守られて生きてきた長い年月を感謝しながら話は、尽きないことでしょう。今度こそ、母の手をしっかり握って離さない! ご冥福をお祈りしています。 20,8,9 娘
父の仕事の関係で外地で生まれ育ち、敗戦の翌年日本へ帰りました。
佐世保の南風岬から上陸、長崎も広島も通って東京へ祖国の焦土の色がとても悲しかった。
毎年6月23日、8月6日、9月15日にお参りしています。亡くなった方々あっての平和、キチンと生きねば不本意に征かねばならなかった方々に申し訳ないです。 20.8.9
ラバウルで亡くなったお爺ちゃんへ
今日は、お母さんと二人で来ました。戦争が終わったとき、母は10歳でした。その時母はお爺ちゃんの故郷にいました。三月町屋が焼けておばぁちゃんと母の兄弟5人、町の中に逃げたそうです。行くところもなくておじちゃんのところに逃げたのです。それからおばぁちゃんも母も必死で働きました。母も今年で73歳です。私も43歳です。私は、お爺ちゃんの年を越えました。この平和の世の中で生きている私には、私と同じ年で亡くなったお爺ちゃんがあの時どんな思いで戦場を前にしていたのか、とてもとても想像がつきません。戦争で死なざるを得なかった方々の命の上に私は、生かされている、生きている気がします。どうぞ、御心安らかにお眠り下さい。
20.8.12 Y.M
平和の祈りと共に戦没者の方々の慰霊をさせて頂きました。
いつも綺麗にして頂いて、守って頂いて有難うございます。平和を祈り続けます。母の遺影と共に。
20.8.28 K.E
私の兄、3名が戦死し、私も入隊しました。
終戦の年の二月入隊、教育訓練だけで終戦になりなした。
長兄は、満州のため遺骨は、帰りましたが、次兄、三兄は、当方で送った写真と石ころが帰って来ました。三兄は、マーシャル群島で巡洋艦「香取」で沈没、海の底にいることと思います。次兄は、サイパン島で玉砕のため、この墓苑」に遺骨が納められているのではないかと淡い希望を持って、長男の案内で妻と三名で参拝に来ました。靖国神社には、兄達の魂が眠るとは思われず、千鳥ヶ淵のみが私の心に残る地です。私は、現在八二歳、二十歳前後で亡くなった三人の兄弟の分まで、生きるつもりで頑張っています。
20.9.4 T
昭和19年8月10日グアム島で戦死した父
グアム島で戦死した父とその他の人々に参拝します。遺骨もなく白木の箱を迎えた事を覚えています。母も平成5年に亡くなり、父を知る人もいなくなりました。 合掌 20,9,29 H.N
父は、満州事変、支那事変、大東亜戦と招集されて、三度目の大東亜戦で亡くなったと母から聞かされました。
父は、ニューギニアのサラモアで戦死とのことですが、遺品など何も還ってこなかったそうです。私は、ある時からもしかして、父の骨が還っているのではとの思いから、この墓苑に月に一度は、お参りすることにしています。もっと多くの方にこの墓苑の存在を知って頂き、国を想い散華された多くの英霊方々のお陰で、現在の日本の繁栄があることを忘れないでほしいと思います。
K.S
秋晴れに みたま集いて やすらかに
千鳥ヶ淵で 心ひとつに
20.10.21 H,N
主人の兄が戦死し、どこでどう亡くなったのかさっぱりわからず私の姉に初めてつれて来て貰いました。母は兄の帰りを待っていたとの話を聞かされていました。でも何にも帰ることなく、国から戦死の知らせ紙一枚であったという。母はどんな思いでそれを受け取ったことでしょう。今日初めてお参りさせて頂きましたが、母と一緒に来たかのように思われます。何か心の中が明るくなった思いです。お兄さん、みんな幸せに暮らしています。安心して下さい。ご冥福をお祈り致します。
20,10,29 S.K
「国の為捨てる我が身はおしまねど今日も見つけた命うれしや」
パプアニューギニアで戦死した兄の手紙文面です。昭和19年6月7日戦死、24歳、木片だけ帰りました。あるいは、この墓苑にと思いつつ、久しぶりに参りました。また来ます。
20.11.8 弟H 宮城
戦死した父の戦跡を訪ねました。
母が亡くなって(平成9年)父の戦跡を尋ねて、ソ連スーチァンへの墓参に参加しました。これまで閉ざされていたロシアの情報が無いまま長い間が終わり、色々知ることが出来ました。そして、この墓苑に父の遺骨が眠っていると信じて参拝に来ました。
12.11 F.A
戦中生まれの私には、記憶には無く、戦争の恐ろしさは、分かりませんが、戦争して人との殺し合いはいけないと思います。
12,20
パラオ共和国でツアーコーデネーターをしています。
ペリリュー島で、アンガゥル島、バベルダオブ島など多くの戦死者を出した島
で、遺族の方々と接する度に「その思い」が私の心に響きます。決して忘れて
はいけないこと、一人でも多くの人に伝えていければと考えています。
12月 T・T