平成25年 参拝して想う(休憩所のノートより)

 

 

 

国家のためになくなられた尊い方々に改めて感謝と哀悼の意を捧げます。一時期国の安全と平和を守る職に就き、先人の方々のその気持ちの上に我々は生かされていると痛感いたしております。現在自民党が政権を担っておりますが、安倍総理が進む道が、日本の安全保障に大いに役立ち効を奏し他国に侮られることのなきよう支えるつもりであります。英霊の方々の心安らかならんことを祈念いたします。

25.1.1   S.I   M.I

 

 熊本から、初めて参りました。

父は七か月の私を残して出征し、ニュ-ギニアのブ-ゲンビル島で戦病死いたしました。240万の英霊の皆様、大変な戦争を歯を食いしばって頑張っていただき感謝申し上げます。これからも皆様をたたえ、遠い戦地での無念さを思い、今後、日本は絶対にしないことをここにお誓い申し上げます。

25.2.16  S.A

 

曽祖父が亡くなってから初めてこの墓苑を訪れることができました。実際に会ったことがなく、話を聞くことができませんが、この場所で安らかに眠って欲しいと願っています。今度は家族とここを訪れられればと思います。

25.3.7    千瑛

 

硫黄島で戦死した父の飯盒の蓋を今も大切にしています。昭和27年硫黄島遺骨調査団の皆様ありがとうございました。

25.3.7  K.O

 

 春彼岸墓苑にて

 春や春、花咲く時に 今年また 生きよとばかり 与えし夫が

25.3.20   新宿区三栄町 Y.A

 

 兄上様、今日は末治と一緒に参拝に参りました。桜満開で兄上様が卒業写真に桜の木に登って写した写真をいつも見ながら、優しかった兄上を思い出しております。私も、もう92才になりました。おそばに行くまで見守ってくださいますように

 

ゴールデンウイークで様々な観光スポットに人が群がる中、閑散と静寂を保つこの地に三十五万人もの帰ることのできなかった魂が眠っていると初めて知りました。今に生きる日本の人々は物資至上主義に翻弄され心を失い、自殺、鬱などが蔓延しており、赤紙をもらってお国のために命を捧げてくださった先人たちに改めて敬意を表したいと思います。本当にご苦労様でした。ありがとうございました。安らかにお休みください。微力ですが、皆さんのため少しでもこの国がよくなって、皆さんの誇りと思えるような国となるよう、私自身努力して参ります。平和な世界が訪れますように。                       

五月五日 k・w

 

沖縄戦で敵潜水艦の雷撃を受け戦没した伯父に逢いにきました。日本の平和の礎になられた全ての戦没者に心からの哀悼と感謝を申し上げます。また皆を連れて参ります。

日立市H・O 60才

 

亡き兄の姿を思い浮かべる当所を訪れることができてうれしい。「ありがとう」を忘れず今日の今、一つ一つを大切にいきたいと痛感しています。 

 日立市 S

                       

伯父がクエゼリン沖、台湾沖で戦死しました。父は北支でけがをして野戦病院に入り、二度目の出征でニューギニア、フィリピンを転戦し終戦後、バギオを彷徨っているとき米軍に投降し、抑留されました。母の弟はシベリアで強制労働、夫を亡くした二人の叔母は戦後生活保護を受けるスレスレの生活をし、子供を育てました。尖閣諸島問題で国を守らないといけないと強く思うが戦争で犠牲者を出してはいけない。中国、北朝鮮の指導者、軍隊は猛省しないといけない。日本が悲惨な目に遭うと尊い命を捧げた方々になんといってわびたらよいのか?平和な毎日に感謝している。                          


 

僧侶であった祖父は34才の若さで子三人を残してフィリピンで戦死しました。祖母が尼僧として後を次ぎ、今は孫の私がつないでおります。宗門として毎年四月十一日にこの墓園で参拝をしており、今年で私も十五回目となりました。いろいろな思いがありますが、先の大戦で亡くなられた方々を思い、私の次の代までもこのことをつなげたいと思います。

                                                   Y

 

さざれ石に逢え、感銘した。               練馬 T

 

昭和二十年八月十五日、満州の札蘭屯で敗戦を迎えた。当時、小学校(在満国民学校)の三年生だった。その翌日から引き上げ生活、放浪の旅が始まった。札蘭屯・斉斉哈爾・新京と移動し、ちょうど一年かけて昭和二十一年八月、博多に上陸できた。生きているのが奇跡の様に思われる。その頃身の回りで、多くの人々が死んでいった。人の死は日常茶飯事、子供心には日常の一部であった。紙一重で残留孤児ともなりかねない状況だった。あの戦争は、何だったのだろう。 

四月三日  K

 

ゴールデンウィークで様々な観光スポットに人が群がる中、閑散と静寂を保つこの知に35万人もの帰ることのできなかった魂が眠っていると初めて知りました。今に生きる日本の人々は物資至上主義に翻弄され心を失い、自殺、鬱などが蔓延しています。亜kが身をもらってお国のために命を捧げてくださった先人たちに改めて敬意を表したいと思います。

本当にご苦労さまでした。ありがとうございました。安らかにお休みください。微力ですが、民さんのために少しでもこの国がよくなって、皆さんの誇りと思えるような国となるよう、私自身努力して参ります。平和な世界が訪れますように。

                     平成25年5月5日   和田

 

戦没者の方々に感謝を捧げます。ありがとうございます。

            2013.5.10   五十嵐

 

久しぶりに訪れた墓苑、深緑が目に、心に深くしみいる。五月晴れには暑すぎる本日、上着を肩に先人のご苦労と京の反映の礎を築かれ手頂いたことに深く御礼を申し上げます。

                     平成25年5月10日  山本

 

昨日の雨も止んで今日は晴天です。昨年に12月8日フィリピン、イフガオ州キャンガンの奥、アンドントッフの奥、アンチポロで父の慰霊を行って今日、ここへやってきました。全てが最後と思っての訪問です。世界が平和でありますように。

              平成25年5月12日(日) 晴れ   山田 

 

  御霊にも 肌あるならば 

初夏の外濠  渡る風よ 吹け吹け

                     2013,5,12    

 

硫黄島で戦死した父に今日、又会いに来ました。

                    2013年、5月27日  貴美恵

 

硫黄島で戦死しました伯父に逢えました。いろいろありがとうございました。母の代わり来ました。

                     2013,5,28   和枝

 

祖父の戦友として共に戦いシベリアの地、旧満州でなくなられた方々にお会いできた気がします。

                       皇紀2673年5月28日

 

参拝したいと長年の間願いつつ、来られませんでしたが、ようやく参拝の願いがかないました。粗末に扱われてはおりませんが、あまりにも訪れる人の少ないこと。残念に想います。自然な気持ちでこの近くを通る人々が、私達のすぐ前の瞬間を生きていた方々の帰ることができなかった無念、その御霊の礎の上に今の私たちのあること、感じて参拝していただけたならと願って止みません。

                        6月1日 愛知県、木暮

 

今日は祖母の命日です。祖父は戦死してしまい私は会うことができませんでしたが、天国で仲良くしてほしいと想います。この地に来ると身が引き締まる思いです。平和な日々にいつもありがとうございます。感謝してます。

                          練馬区   村田

 

 

この緊張感の空間、小泉自身、子供に手をあわせさせたい。平和の中に生きている自分、ご先祖様に合掌

                          板橋区   小泉

 

私(72才)、初めて参拝し父がこんな静かな場所に眠っていることに安心しましたが、一日も父のことを忘れることはできません。戦争はもういやです。

         平成25年 6月10日 曇り     合掌 光枝、昴雄、薫

 

 雨の中で紫陽花の花が鮮やかな色彩で迎えてくださいました。久しぶりの千鳥ヶ淵、五月でしたか、15000の遺骨が、収集の皆様のお力でこの地に埋葬された事を新聞で知りました。私の父ちゃんも15000の遺骨の中に入れていただけたのでしょうか・・・、早く来て手を合わせなければ・・と言う思いでした。戦争が終わり、私も69才になりました。母は89才になって一日も平次父ちゃんのことを忘れたことがないそうです。朝晩に写真に挨拶をし、寂しくつらいこと、又うれしいことなど一日の出来事を語りかけることのひとときだけが89才の母の慰みの様な手紙を、時折私のところに寄せて来ます。写真だけでしか父ちゃんを知らない私・・・・、どんなことがあっても二度と戦争のない戦争しない、日本であってほしい。そうでないと父ちゃんや母、たくさんの戦争犠牲になった皆さん・・・。何のために苦労をし、犠牲になったのか・・・。わからなくなってしまう・・・。又逢いに来るね・・。  おとうさん。

                       25,6,16   山口

 

今日初めてここに来ました。来た理由は、私のおばあちゃん(敏子)は香川にすんでいて、なかなか、東京まで来れず、行きたいがいけない・・・、おばあちゃんの気持ちを引き継いで今日、ここに来ています。本館(六角堂)に行ったら、胸が熱く苦しくなり、涙が出そうでした。曾じいちゃんには一度も会ったことがなく、写真もみたことがないです。でもなぜか懐かしいと言うか、ほっと安心したような、やっと逢えたねとなりました。いつかおばあちゃんもつれて来たい。いや、絶対連れて来たい。又、菊の花、私とおばあちゃんの分を曾じいちゃん(宮田敏)に渡しました。この想い、おばあちゃんの思い、曾じいちゃんまで届いたかな。最後に曾おじいちゃん、どうか、どうか、空からおばあちゃんをみてください。守ってください。夢でもいいから逢ってください。お願いします。これがひ孫、晶子の願いです。又、大阪から逢いに来ます。それまでお元気で。

平成25年6月17日(月)  晶子

 

 

20才の頃より毎年数回お参りしているものですが、50数年前は私が一番若かったのですが戦争体験者やその家族がたくさんお参りしていました。 その人たちも今はなくなり、最近は私一人の時がほとんどで人影がなくなり悲しんでおります。人にとって一番大切な命を戦いのためになくすことは家族、身内、友人、日本人、人として一番悲しい事です。人にとって一番悲しいことです。戦争が一番人にとって悲しい事です。ものは豊かになりましたが、心の中では誰も言わないで、言うことができなく想っていると想います。人は誰でも知っているつもりでいても日本人も世界中の人も一番大切な事を実行していないのが悲しいです。私は年に数回は今後もお参りします。                     

78才(男)  板倉

 

何気ない散歩をしながら、道に半分まよいながら、それは何かに導かれるかのごとく、6月最後の土曜午後に初めてこちらにたどりつきました。 息子20才が自国防衛を志している母として、こちらに参らねばならなかったようなそんな思いがしております。日本のため、私たちのため、守ってくださった方々に心からの思いを込めて。

                           H25,6,29 ゆうこ

 

   空梅雨に 心に浮かぶ  みたまらの 

故国を思う  熱きまなざし

                             新宿区 

 

54回続いている亡父の参拝に靖国神社を訪れ、そのままここに来るとすがすがしい気持ちになると共に又1年間元気に過ごせるという勇気がわいてきます。今の平和がいつまでも続く事を願っています。

                         三鷹市井の頭  小池

 

兵庫県からお参りに来ました。大東亜戦争から70年近くが経過、今日の日本の繁栄は皆様方の尊い生命のたまものです。どうぞ安らかにお休みください。私も皆様の気持ちに添えるようがんばります。

                            小澤 

 

立川からお参りに来ました。靖国神社へこれから行くところですがこちらへもたくさんの方がお参りに来てほしいと想っています。戦争で亡くなった方々、軍人、軍属そして民間、問わずこちらや靖国に合祀されているか否か問わず、すべての方々が平和の礎だと私は思っています。あの世で幸福にいらっしゃるようお祈りします。私は会社員で、若造でいろいろと今、会社でひどい目に遭っていますが皆様の労苦に比べればちっぽけなものだと想っています。がんばりたいと思います。

一会社員

 

先ほど靖国神社、遊就館に行って靖国神社でお参りさせていただきました。今、千鳥ヶ淵墓苑で菊の花をお供えして、戦争でお亡くなりになった方々が安らかにお眠りくださいますよう合掌、哀悼の誠を捧げさせて頂きました。平和のためには、国の制度はもちろん、あらゆる事をしっかりさせて真の平和を永く確かなものにさせるために少しずつ展開していく必要があると想います。戦争でお亡くなりになった方々の安らかでありますよう願いを込めてお参りさせて頂きました。

                          愛知県 有馬 40

 

 

兵庫県から、参拝にきました。大東亜戦争から70年近く経過、今日の日本の繁栄は皆様方の尊い犠牲のたまものです。どうぞ安らかにお眠りください。私も皆様の気持ちに添えるようがんばります。  

7月16日 K,O

 

今年も元気でお参りすることができました。感謝です。9月で69歳になります。 

85日  遺児

 

私の父はサイパン島で戦死しました。顔も知らず、今年70歳です。毎年お参りしております苦しかったでしょう。安らかにお眠りください。   

 814日 ちえこ

 

 

いつもお参りに来ても墓苑にお参りにきても人が少なく、この墓苑の存在を知らない人が多いのではといつも感じていました。今日は参拝者がとぎれることもなく続いており、とても賑やかで、墓苑に眠る方々も喜んでおられるのではないかと思います。今の日本があるのも多くの方々の尊い命の犠牲があってのことを一人でも多くの人が知ってほしいと想います。この墓苑の存在も是非知ってほしいです。                

815日 荒川 KS

                                                       

毎年8月に靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑に夫婦で来ます。世の中の平和と家族の幸福を祈って帰ります。来年もきます。 

818日 

 

日本の平和、今ある日本、それは戦争で亡くなられた方々の尊い命のおかげと思います。 
時々ここに来て、気持ちを新たにして、一生懸命生きて行こうといつも思います。           

   819日 北区  K,M

 

毎年夫婦そろって参拝させていただいています。空襲におびえることなく日々暮らしていることをまるで当たり前のように過ごしている私たちですが、この穏やかな生活は大勢の罪なき人々の尊い命の犠牲の上にあるのだということを毎年、確認する意味もあります。であるからこそ、平和の為の努力と戦いは自分たちのできる範囲で行わなくてはいけません。今年も決意を新たに正しい歴史の学習と、海外の友人と交流を深めて行こうと思いました。 

                 820日  大阪府 中島

 

恥ずかしながら、今年初めてこちらの墓苑の存在を知り今日参拝させていただきました。なにか、日本人としてのけじめをつけることが出来たようなすがすがしい気持ちです。これからは毎年、参拝したいと思います。

823日   M,K

 

毎年靖国神社にお参りしておりましたが、こちらの存在はついぞ存じ上げませんでした。今年、お仕事先の女性から戦争について伺い、千鳥ヶ淵に是非参拝していらっしゃいと教えて頂き、今回参らせていただいた次第です。 蝉時雨と、時折の雀の可愛らしいさえずりのみの穏やかな墓所で、なにもないことの幸せ、平和について想われました。とても暑さ厳しい日ですが、暑い暑いと思っていても、亡くなられた方々を偲ぶと何ともない気がいたします。願うことは戦争を日本から無くしてくださった方々のご冥福とその方々に感謝の意を込めて、今度は世界から戦争を無くす為一個人としてよき人間でありたいと思います。               

827日    N,Y

 

年に数回しか来れませんが、平和の有り難みをかみしめております。年をとるたびに健康で過ごせる事を幸福に思います。どうか安らかにお眠りください。ありがとうございます。感謝しております。

 

ずっと参拝したかったので、念願が叶いました。現在の日本があるのは散華された方々のおかげです。安らかにお眠りください。
そしてこれからも日本を見守ってください。                    

9月30日

 

親父殿、やっとお参りがかないました。安らかにお休みください。

                          10月6日

 

 

初参拝、靖国からの近さに驚く、又、様々な宗派の人々が儀式を行っていることにも驚く。第2次大戦と、その戦後処理を考えるよい機会になった。又来る。

                         10月12日

 

恥ずかしながら、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の存在を知りませんでした。命をかけて国を守ろうとしてくれた皆様に感謝いたします。

  10月12日()  木佐貫 
 

        

当苑にはこれまでにもたびたび参拝させていただいておりますが、去る10月3日に米国国務長官と、国防長官が、旧敵国米国の政府高官として初めて、当苑に献花黙祷を捧げてくださった事をニュースで知り、いささか遅きに失したとはいえ、これこそがアーリントン墓地への日本政府高官の表敬に対するもっとも適切な返礼であると存じました。今後ともこのような習慣が定着するよう心から希望いたします。日本政府の方々も、当苑の存在の国民への周知徹底にいっそう力を入れていただきたいと存じます。従兄弟は、中国沿岸で海没戦死しており、遺骨は帰っておりませんが、当苑はそういう遺骨未帰還の方々をも追悼する施設とわたくしは受け止めさせていただいております。    

10月17日()   大学教授 三土

 

参拝を終えて    

「兄さん一年ものご無沙汰でした」という気持ちで今年も参拝をしました。勝手な思いこみですが「ああ今年も来てくれたね。いう兄の声が聞こえたような気がしました。錯覚です。わたくしが千鳥ヶ淵の存在を知ったのは同じ市内に住み、政府の遺骨収集団に2年続けて参加され方に偶然お会いできてビルマの激戦地での遺骨の収集の詳しいお話を聞くことが出来、その方が兄と同じ戦友さんで昭和20年3月15日の激戦の模様を詳しく説明をしていただく中でその遺骨の中に兄の遺骨も必ずあるんだと確信しました。収集された遺骨はどうされたのかと尋ねしたところ、東京九段千鳥ヶ淵に納めたといふ事でした。わたくしはビルマにまで行かなくとも千鳥ヶ淵に行けば必ず兄に逢えるのだ、との感動を今も忘れません。妻も私のこの心情を心から理解してくれて二人で千鳥ヶ淵へと向かいました。それが29年前の秋の事でした。僅か年一回のお参りですが今日、29回目のお参りをさせていただきました

身体の衰えも見えて来た今日この頃です。来年はわたくしも86才、妻も81才になります。来年の事をいえる齢ではありませんが何とか頑張って30回と言う節目の年の参拝が出来たらなあといふ今の気持ちです。そして来年の秋季慰霊祭に参列させていただければこの上ない私たちの思い出になるものと思っています。最後になりましたが日夜ご苦労されている墓苑奉仕会の皆々様本当にありがとうございます。ありがとうございました。  

10月17日  長崎県佐世保市  田中 

 

 

願わくば、家族の下へ帰ってほしいです。初めての参拝でした。戦死した人はもとよりも生き残って人たちも後10年もすればほとんどが世からいなくなってしまいます。あの戦争の証言を伝えてくれる人たちがいなくなったとき、若年世代の私たちは何をすればよいでしょうか。体験がなければ人には伝える事が出来ませんし、かといって後世に伝えて行かないわけにも生きません。二度の戦争を繰り返させないために、私が出来る事って何だろう?て、考えています。

前に、一に「青の戦争でもし日本が勝っていたら、今の日本ってどうなっていたのかな?と不意に問うたことがありました。その人は、もし勝っていれば今のアメリカのように今も戦争を続けていたのではないか?と言いました。勝っても地獄、敗れても地獄、それが戦争なのだと思いました。大切なのは、一人一人が彼らの存在を忘れないことなのかなと。過去に目を向けることは、私たち祖先の生きた時代と、生き様をも視ることにつながる。自ずと感謝の気持ちが湧いてくるのです。 

青森県八戸市、 長峰 

 

 

千鳥ヶ淵戦没者慰霊祭に18日参列させていただきご立派な式典へ列席出来ました事、初めに奉仕会の皆様に感謝申し上げます。改めまして、本日雨の中ではありましたが、献花の花束を購入し、そして、戦没者の方々が食べたかった物、飲みたかった物等、思いをはせながら、おにぎり、ミカン、バナナ、ブドウ、おまんじゅう、キャラメル等購入し、伊勢神宮での式年遷宮後の参拝にて購入した御神酒、又昨日参拝いたしました東京大神宮にて頂きました直会の御清水、後は今日は暖かいお茶もお供えをと購入し、持参いたしました紙皿にお供え物を盛りつけ、献花台へお供えさせていただきました。お亡くなりになり、御霊はこの世にいつまでもとどまることは出来ませんが、想いというものはいつまでも残りやすいものです。真の供養とは、この思いまでも天へ上げ、この世に一切残さぬ事だと思い、お供え物を供えさせていただきました。様々な場所で、様々な家族構成があり、子孫が残った方、一家全滅の方、死もそれぞれにあります。日本人として、亡くなられた方の多くは、死者が死者を思い慰めている。この場所で手を合わせますとそのように強く感じました。改めまして先人の情けの深さに感涙し、御心を深く学ばせて頂いたと思っております。毎日、神棚にて全てのご英霊、戦没者の方々の御霊の浄化、想いの浄化を祈り、感謝を捧げておりますが、年に一度はこちらへ足が運べます様、日々精進したいと強く感じました。

より大勢の方々に、お参りいただきたいと切に願っております。

合掌  

10月20日(日)  兵庫県姫路市  服部 

 

ここへ来るたびに身が引き締まる思いです。逢わずに戦死した祖父を想います。

安らかにお眠りください。平和な日本がこれからも続きますように。 

                       11月5日  泰之

 

息子に連れて来てもらい、思いが叶いました。立派に整理され静けさの中、お参りさせていただきました。大勢の皆様安らかにお眠りくださいませ。

                  11月7日() 小雨 山梨 須美子

 

初めて参拝しました。亡き母の最初の夫は戦死しました。この事を知らされたのは20才の時です。この平和がいつまでも続きますように。

        「かの難き 戦い思い 菊ささぐ」

                         三重県 津市 川西 

 

初めて参拝しました。祖母の兄が一人、南方の戦場で亡くなりました。遺骨が日本に帰って来たのか、家に戻ってきたのかについては判らず、もしかするとこの戦没者墓苑に納骨されているかもしれません。納骨されているかもしれないと言う想いで一本献花させていただきました。奉仕会の方に親切にしていただきました。 

                 11月8日  J、A

 

第五十九中隊百四十名の皆様(私の父を含む)ニュウギニアのウエワクで元気だったのに、その後船に乗ってどこへ行かれたのですか、もう六十七年南十字星輝く空の下の海に沈んでいるのですね。私は何とかして場所を知りたいと思い、努力してきましたが残念ながら未だに行方不明。戦死認定のままで子供としてどうして良いか分からず、日本国は陸地だけでなく、何とか海中も探していただきたい、お願い致します。日本までお帰り下さい、待っております。私も年をとりました。早くお帰り下さい。

                                 大阪    R.K

 

私は現在家族と共にオーストラリアに在住しております。早いもので来年の二月で一〇年となりますが、海外で生活して初めて私は日本の良さがわかるようになりました。オーストラリアでは、毎年五月に第一次及び第二次世界大戦に関わった方々に対しての尊敬の念を表す国家的行事「アンザック・デー」が祝されます。私は豪州国出身の妻とのあいだに授かった一人娘がおりますが、家族で参加をして敬意を表します。もはや今となっては戦勝国や敗戦国は関係なく、全ての戦争に関わった方々へのこれからも生き続ける我々の深い平和への決意を固めなければならないと感じます。私個人もより深く日本のことを理解し若い世代へフェアに伝えていきたいと思っています。日本人としての自覚を持ちながら世界的な平和への道を探る大志を持って。

H25,12,12 オーストラリア・ブリスベーン在住 緒方

 

                           

 

今でも先の大戦が映画やテレビドラマの題材になります。劇中の兵士たちは神々しく画面に登場し、散っていきます。.国のためだ、臣民の勤めだと言われても、そうだと意識したとしてもやはり、一人の人間としてやりたかったこと、語り会いたかった日と思い描いていた人生があったはずです。.勝った敗れたではなく、もうこういうことはあってはならならない。.未だ知られることもなく異国の土にいらっしゃる先達があるのだということを忘れてはならないです。

                    H25,12,25  岩手県 東浦

 

晴れたいい天気の今日、ちょうど休日なので参拝にきました。これから靖国神社にも行きます。母によると遠い親戚に出征して亡くなられた方、民間人ですが満州の方へわたって帰って来れず、行方がわからなった方などが何人かいらっしゃるそうです。私が生まれる数十年前戦争が原因で亡くなった方々、戦死した方々、または空襲で亡くなった方々のことを考えると今生きている私たちの身代わりになってくれたんだと思います。ご冥福をお祈りします。都内に住んでいますので日常仕事やいろいろなことで悩んだり、考え込んだりするときはこちらや靖国へ言って自問自答し、皆様の労苦に比べたら,たいしたことないやと割り切って頑張るようにしています。

                    H25,12,25   若輩者の会社員

 

亡くなられたお父さんを想うお子さん方の文章には,幼子を持つ父としても胸を打たれました。戦争は2度としてはいけないという思いを大事にして行きたいです。

                        H25,12,27   K,M