海外慰霊巡拝(アッツ島慰霊)

  このたび東京中野にお住まいのSご夫妻が平成二十五年六月二十四日〜七月三日にかけて山崎大佐守備隊司令官以下二千数百名が玉砕したアッツ島に現地ガイド、及び僧侶を伴い、計四名にて慰霊巡拝を行われました。
特に現地には、アンカレッジからは民間のセスナ機をチャーターしてアッツ島間を往復されました。

ご夫妻はこれまでサイパン、グゥアム、ペリリュ島、フィリピン、インパール、ニューギニア、ガダルカナル、ビルマ、インドネシア、中国、シベリア等、大東亜戦争激戦地にて遺族の参拝が困難な地に対して慰霊巡拝をされていますが、今般は、アッツ島守備部隊玉砕より七十周年の節目に現地慰霊碑の前で導師と共に戦没者供養をしたいとのかねてからの強い念願でありました。

このような慰霊巡拝の決意に至らせたのはこれまで読んだ英霊の方々の遺稿集や、又中国の激戦の地、「拉孟・謄越」を訪問した折に発見した下記の「玉砕せる一兵士の遺書より」を見たことによります。 

「玉砕せる一兵士の遺書」

もし玉砕して、そのことによって祖国の人たちが、少しでも生を楽しむことが出来れば祖国の国威が、少しでも強く輝くことが出来ればと せつに祈るのみである。遠い祖国の若き男よ 強く逞しく、朗らかであれ なつかしい遠い祖国の若き乙女たちよ 清く美しく、健康であれ

 

 以下、御夫妻のアッツ島慰霊巡拝記を紹介します。お名前はご要望によりイニシャルのみにします。
 

アッツ島の慰霊巡拝について

              Y.S,M.

一 アッツ島慰霊巡拝行動の概要

六月二十四日・二十五日、

日本出発、アンカレッジからはセスナ機をチャーターして途中ダッチハーバーにて給油、爾後アダック島着、一泊

  二十六日、天候不順のため出発が遅れたが、十二時二十分アダック島出発、

十五時アッツ島到着、慰霊祭を行う日米合同慰霊塔に向け出発、

(到着後島内移動用の自転車を組立。島内は無人島のため交通手段は何もなく、持ち込んだアシスト付きの自転車による走行、坂道などは自転車を押しながら徒歩移動、この状態を繰り返し、アッツ島の飛行場から慰霊碑まで十一キロの行程であった。

     途中、日本軍陣地構築跡地、米軍上陸地点、戦闘地域、芝台及び山崎大佐の碑に参拝

十八時頃、慰霊碑前着、約一時間ほど慰霊祭を実施、爾後離陸のため飛行場まで移動、約二時間

二十二時半アッツ島を離陸、午前零時過ぎアダック島着、アダック島宿泊   

二十七日、アダック島発、アンカレッジへ、十四時半無事帰着

二十八日、二十九日は天候不順のため予備の日として予定していたが、奇跡的にも天候に恵まれて、フリーの時間となる。

 (七月一日、アンカレッジ、フォードリチャードソン墓地内の日本人兵墓地に参拝、この日も慰霊の時間内のみ雨が上がり、英霊の皆様のお導きと感激しました。)

 


二 アッツ島における慰霊祭の状況

(一)日本政府建立の「日米合同慰霊碑」・「アッツ島戦没者慰霊碑」前での慰霊祭

(日米合同慰霊碑及びアッツ島戦没者慰霊碑は隣接、並立している)

   日本から持参した酒、米、和菓子などの供え物、又戦没者皆さんへの塔婆を建て、線香を上げ、お上人さまの読経を捧げ、合掌する。 ハーモニカ演奏で「海ゆかば」を奉納した。臥牛山にある慰霊碑に到着したのは午後7時過ぎになっていた。気温も下がり、かつ風も出て来て寒さも厳しかった。特に用意したろうそくに灯が灯せなかったのと迫り来る想いで胸一杯になりここではハーモニカ演奏(ふるさと)が出来なかったのが残念でした。

(二)山崎大佐の碑等の参拝、読経

日米合同慰霊碑に行く途中に米軍の建立した山崎大佐の碑があります。ここにも日本から持参したお菓子などお供えし、読経を捧げました。その後、しばらく歩き、米軍が最初に上陸した海岸のホルツ湾方面とチチャコブ湾方面を望む荒れ地に到着、ここは日米両軍の激戦が繰り広げられた地点であり、日本のお米を持参しアダックで作って用意しておいたおにぎりなどお供えし、線香を手向け読経を捧げました。 

三 アッツ島慰霊巡拝で感じたこと

 ・ 一般に、六月から八月ころがアッツ島への入島の最適の時期でありますが、この時期でも、気温は低く、気象は濃霧が続き視界ゼロになったり等で厳しい環境に代わりはありません。しかしながら、今般は幸いにも、慰霊の間は天候に恵まれました。山々には雪が少し残っていましたが、地表は緑に覆われ、高山植物が咲き乱れ、とても美しい風景がいたるところに見られ又小さい花々に心いやされました。ここで戦闘があったとは信じられないほどでしたが山々には砲弾の跡や、たこつぼの跡があちらこちらに残り又一本も木のないこのような島での兵士の方々のご苦労が偲ばれました。

  道路はでこぼこの砂利道で山あり谷ありの、しかも曲がりくねった道を、島での滞在、時間を気にしながら歩くのには苦労しました。特に自転車のバッテリーは往路移動の途中であがってしまい、坂道は手で押しながら歩く事になってしまいました。

  慰霊祭を終え、アッツ島を離陸したのは夜の十時半でしたが、まだ明るく白夜というものを初めて体験しました。

  半年がかりで準備し、いろいろ大変な事もありましたがとにかく途中で体調を崩したりけがすることもなく無事に慰霊を終えて帰ることが出来ましたのはひとえに英霊の皆様のご加護による奇跡の様な一日であったと感謝の気持ちでいっぱいでした。又アッツ島入島に当たりアメリカ政府(魚類野生動物局)への入島許可申請が必要と云うことで奉仕会理事長若松様に印鑑を頂戴し、許可をいただけましたことは大変有り難く心から感謝申し上げます。

  遺骨収集など戦後処理に於いて、不発弾、埋葬地図の不備、作業時期の制約等、難しい問題を抱えるアッツ島の状況ですが私ども夫婦の出来ることは、英霊の皆様の眠る地にて、頂いた平和と繁栄をご報告し導師と共に御霊をお慰めすると共に心からの感謝を申し上げることのみであります。

  人は2度死ぬと云います。シベリアへ抑留された方の遺書に、「今ここでの死は恐ろしくないが自分が忘れ去られることが一番つらく悲しいことだ」と書き記されておりました。私どもは英霊の方々を二度目、死に追いやらぬ様、今後とも戦争の悲惨さを子供や孫たちに語り継いで行きたいと考えております。

  最後にお上人様も出発直前に足をけがされ、大変な中を同行してくださった事、ガイドの今野さんにはバイタリティあふれるご案内をして頂いたこと、そしてセスナのパイロットジェーンさんのユーモアあふれるお人柄でもちろんベテランの操縦士であり飛行中何の不安もなかった事、この慰霊旅行を企画してくださったA&P社の方々の適切な手配等々、この旅行に携わってくださった皆様のおかげさまで無事に成し遂げられましたことを心から感謝申し上げます。