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千鳥ケ淵戦没者墓苑の施設等

墓苑の施設等

政府においては、戦没者墓苑の建設にあたり、簡潔で尊厳感のあること、相当多数を収容し記念行事を行いうること、特定の宗教様式にとらわれないこと等を基本設計の方針として、この戦没者墓苑を建設することになりました。建設後も時代の要請に応じて改善してきておりますが、この基本理念は生かされ簡潔で尊厳感のある中に親しみを感じさせてくれる立派な戦没者墓苑となっております。

墓苑のマップ

敷地は二辺がお濠に面し、道路から皇居の森が見えます。参詣する人は東西の門から参道を経て前屋正面に至り、そこから本屋・六角堂を眺めることができます。

陶棺の写真
1 陶棺
墓苑のシンボルとして、日本古代豪族の寝棺を模した陶製の棺で、明るい赤みを帯びた黄褐色、長さ2.5m、幅1m、高さ1.3m、重量5トン、蓋のみで2トンという世界に前例を見ない大型のものである。岡山・備前市の九州耐火煉瓦株式会社で製作されたもので、素材は先の大戦の各戦域の大地の土・石を高温で焼き、粉にして練り込み千七百度の高温で焼いたものである。陶棺内には御下賜の骨壺が納められている。陶棺の製作作業に当たった者の中には海外の戦線を駆けめぐり、無事帰還した勇士達が加わっており、齋戒沐浴して製作に携わったといわれる。
下賜骨壺の白黒写真
下賜骨壺(公開しておりません)
骨壺は昭和天皇御下賜のもので、高さ28㎝の茶壺型で、東京芸大教授・内藤春治氏ほか東京芸大助手7名製作の黄金の工芸品である。昭和34年2月10日、宮内庁から骨壺御下賜の示達があり、3月25日厚生大臣代理の田辺繁雄事務次官が宮内庁において拝領した。骨壺に納骨する儀式は、竣工式の前日、昭和34年3月27日午後3時から、厚生省市ヶ谷庁舎において、あらかじめ分骨しておいた各戦域の戦没者を象徴する代表遺骨が引き揚げ援護局長の手によって、御下賜のお骨壺に納められた。
納骨壺の白黒写真
納骨壺(公開しておりません)
地下納骨室に置かれる納骨壺は容積140リットル、高さ70cm、直径50cm、金銅製の円筒形で、富山県高岡の株式会社・老子製作所で製作された。 昭和34年3月2日、厚生省市ヶ谷庁舎に24個納入された時には、満堂金色燦然たる偉容に圧倒されたとある。3月23日に新設された墓苑本屋六角堂地下の戦域別の6室に配置され、翌3月24日24個のうち18個に集められた御遺骨が納骨された。各室にある納骨してない空の納骨壺は将来の収骨に備えて用意された。その後、納骨壺6個が増置され、現在地下納骨室には約30個納められている
墓苑の上空写真
造園及び植樹
造園設計者の田村剛氏は谷口氏と度々打合せを行い、簡素、清浄、荘厳なものにするための造園設計の方針を日本的なものとし、使用材料は総て国産、樹木は武蔵野に縁のあるものを用いることとした。広場の敷石は伊豆の根府川石を使用し、自然と調和するよう不規則に配置し、余計なものはおかない、そして全体のまとめは単純な直線を利用し、複雑で装飾的な洋風は避けたものとした。 樹木は、花木が少なく、常緑樹が主体であり、なかに若干の欅、その他の落葉樹がある。この常緑樹が主体であることは、田村博士の主張するように聖域の静寂、荘厳を主眼としたもので戦没者のお墓にふさわしいものと言える。 樹木は喬木(約13種)灌木(約11種)合計1,800本であった。その後、引揚援護局(在市ヶ谷)にあった大蘇鉄3本及びモッコクが移され、更に沖縄遺族会から形姿のすぐれた蘇鉄、宮城県から萩などが寄進され、また総理大臣から真榊十数本が献木された。なおその後においても関係官庁の手によって、年々、各種の樹・花木が補強され、現在その総数は約4千本に達している。創建当時、矮小であった木々も大きく成長し、殊に楠、欅等は鬱蒼と茂り墓苑の深厳さを増している。 なお、植樹の基金は全日本無名戦没者合葬墓建設会が全国同志からから募金した浄財が充当された。墓苑建設事業は同会が官民合同の全国組織として広大な計画をもって実施しようとすすめていたが、国が会の目標とする墓の建設をすることとなったため、同会の事業を中止し昭和29年8月解散した。全国同志の志が千鳥ヶ淵のこれらの樹木にこもっている。
御製の碑の写真
2御製の碑
六角堂に向かって左手に花崗岩の碑が建っている。この碑は、昭和天皇が当墓苑のために、墓苑創建の年の秋に御下賜された御製「くにのためいのちささげしひとびとのことをおもへばむねせまりくる」を、秩父宮雍仁親王妃勢津子殿下が謹書されたものである。この碑の除幕式は墓苑創建1周年にあたる昭和35年3月28日、秩父宮妃殿下のご臨席のもと、清瀬一郎衆議院議長はじめ政・官・財界等各団体の代表並びにマッカーサー駐日大使等の外国使臣、その他一般参拝者約2,000名が参集して厳粛盛大に行われた。この碑の費用は故五島慶太氏(ご子息は海軍士官でソロモン方面において戦死)が遺族年金を寄進されたものである。 なお、この御製の碑建設経緯については、若干、裏話的なものがある。 引揚援護局次長として戦没者墓苑建設に取り組み、また、奉仕会設立後は設立当初から奉仕会理事としても戦没者墓苑業務に参加した美山要蔵氏は、偕行社機関誌「偕行」(昭和56年5月号)に「千鳥ケ淵戦没者墓苑」の記事を書いており、同氏はその中で「・・・(昭和天皇から御下賜の)お骨壷は陶棺の中に安置されていて参拝者の目には入らない。そこで何とか直接陛下のお気持ちが目に映り易い方法はないものかと考えた末、今村大将に教示を請うたところ、それは御製を頂くことだと言われた。早速小畑侍従を通じて入江侍従にお願いした。・・・・幸いにも昭和34年の年末にその願いが叶えられて宮内庁に出頭して頂いてきた。」(要旨)と述べている。記録によると御下賜された御製の伝達については、昭和34年11月16日宇佐美宮内庁長官から渡辺貞夫厚生大臣に宛てた文書で伝達されている。 頂いた御製を「御製の碑」として建立することについては、美山要蔵氏は前記の記事の中で「その頂いた御製をどなたに御染筆頂くかについては、秩父宮妃殿下にお願いすることができた・・・・この碑の建設の資金については、懐具合の淋しい奉仕会予算では、建設の費用を捻出することが容易でないので、「御製の碑」制作を担当する石勝に製作並びに建設費を割安にして頂くと共に、資金面では五島社長にお願いした。」(要旨)と述べている。 また右手にある碑は、上皇陛下が終戦60年を迎えるにあたり「歌会始の儀」において、詠まれた御製「戦なき世を歩みきて思い出づかの難き日を生きし人々」を、御下賜いただき、常陸宮妃華子殿下が謹書されたものである。墓苑創建40周年記念事業で計画されたものが念願かない成就したもので、平成17年9月27日、常陸宮同妃両殿下ご臨席のもと、除幕式が厳粛に行われた。
大賀ハスの写真
3大賀ハス
戦没者墓苑休憩室前に小さなミニ池が設けられている。このミニ池に大賀二千年蓮が植えられており、毎年6月中旬から7月半ば過ぎまで綺麗な花を咲かせて参拝者を楽しませている。この大賀ハスは、千葉県で約2千年前の地層より発見された種子から咲いたもので、昭和57年5月16日、新潟県十日町市在住の俵山長松氏のお世話により、同氏及び平間正氏、古幡光男氏が十日町市から持参した大賀ハスを植え付けられたものである。 俵山氏は、前大戦に際しインパール作戦に参加、ビルマで大変苦労した人で、幸いにして生きて復員できたことから、戦没者墓苑に眠る戦友への思いは深く、十日町市の二つ屋弁天池には、俵山氏の熱望で昭和35年5月大賀博士が蓮の根を植え込まれ、爾来、平間氏や俵山氏がその育成に努力して立派な蓮池となっている。こうしたことから俵山氏は「大賀二千年蓮を守る会」の代表世話人となっている由である。
さざれ石の写真
4さざれ石
苑内休憩所前に「さざれ石」が献納され、その古雅な勇姿は参拝者の目を引き暫し足を止めさせている。この石は高さ、幅とも1m余、重量は約2トンである。昭和56年6月8日、岐阜県在住の松野治郎氏(士官学校48期生)の紹介により同県揖斐郡春日村の小林文治氏から戦没者墓苑に寄贈されたものである。、昭和36年、春日村のさざれ石は小林文治氏の父小林宗一氏により発見され、昭和52年11月18日、岐阜県の天然記念物に指定された。松野氏は当時の奉仕会理事長美山要蔵氏の後輩にあたることから、この寄贈にあたっては、美山氏にそのことを申し入れている。 この石は言うまでもなく国歌「君が代」に因むものであるが、石の学名は「石灰石角礫岩」と呼ばれている。石の成り立ちは石灰石が長い年月の間に雨水に溶解してその粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝結し、だんだん巨岩となり河川の浸食により露出したものである。 墓苑園庭設計者の田村剛博士は、この墓苑には庭石的なものは一つも用いず、敷石だけが使われているが、このさざれ石は特別な意味で献納を受け入れられたものである。
標柱の写真
5標柱
墓苑の設計及び建設に当たって、何か戦没者の霊を慰め、世界平和を願うような意味の字句を、苑内に掲げることについて検討されたが、字句及び執筆者の選定が難しく、結局、墓苑の入り口二カ所に「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」の標石を置くこととした。表面の「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を岸総理大臣に、裏面の「昭和34年3月28日竣工厚生省」を坂田厚生大臣に揮毫を依頼した。
手水鉢の写真
6手水鉢
墓苑創建10周年にあたり、環境庁で手水鉢を前屋手前左側に設けることになったが、環境庁の予算が不足して来た。そこで奉仕会はその手水鉢建設の一部を分担することになった。その分担の方法として、環境庁予算で手水鉢本体を担当し、奉仕会は底部の縁石、鉄平石貼底、玉砂利を分担してこの手水鉢が設けられた。
シベリア抑留戦没者慰霊碑の写真
7シベリア抑留戦没者慰霊碑
ソ連によるシベリアなどへの戦後強制抑留」や「終戦直後の混乱した状況下における外地からの引揚」により尊い命が失われた方々を追悼し、このような悲劇を後世に継承することにより、永遠の平和を祈念するものです。
休憩所内の写真
8休憩所
休憩所の写真
前屋ベンチの写真
9前屋ベンチ
前屋ベンチには静かな環境下で約50名が一列でお座りになれます。
藤棚テーブルの写真
10藤棚テーブル
ご家族またはグループで静かな環境下でランチを楽しむことができます。