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千鳥ヶ淵戦没者墓苑周辺の今昔

1.千鳥ヶ淵地域の変遷(薬草園→宮家邸→戦没者墓苑)

現在の戦没者墓苑の敷地は、昭和20年頃まで賀陽宮邸の他、宮内大臣官邸等があったところである。昭和20年3月と5月の空襲によりこの地帯の建物は焼失して荒れ地となり、墓苑用地を探している頃、この土地は荒れ地のまま宮内庁が管理していた。この宮内庁管理の用地のうち約5000坪(約15000平米)が戦没者墓苑用地として使用されることとなった。

この敷地の地域を更に遡って調べると、今から約400年昔のこと、徳川家康は江戸城を居城とするに当たり江戸城の本丸、西丸を中心として諸大名、直参の家臣等に屋敷を与えて江戸城の警護に備えた。千鳥ヶ淵から西方の四谷、市ヶ谷方面の外濠に至る範囲には、徳川家譜代直参の家臣を配置してこの地域は番町と呼ばれた。今も町名に一番町から六番町の名が残っている。今、戦没者墓苑は三番町内にあるが、この頃、現在の戦没者墓苑用地附近は旗本屋敷であったところである。

江戸では、度々火災が発生しそれが延焼して大火となった。明暦の大火(1657年)では小石川伝通院近くで発生した火災が延焼して江戸の大半を焼き江戸城まで類焼した。この大火の後、幕府はその防火対策として、千鳥ヶ淵と新道一番丁(現在の靖国神社の大村益次郎像の位置から南に走る「内堀通り」)の間の東半分に幅約50メートル程の細長い防火地帯(火除明地)を設置した。また、この火除明地を遊ばせたままでは勿体ないことから、その南の部分を薬草園として薬草を栽培した。今の墓苑用地附近は、この頃は薬草園となった所である。

明治維新後、これらの土地は収公され、薬草園の南の部分は開成学校(東京大学の前身の「大学南校」の前身)の物産地となり植物園のようにして一般の人にも公開した。明治10年になりこの土地に閑院宮載仁親王邸が新築され閑院宮がここにお住まいになった。後に閑院宮は永田町に移動され、ここは久邇宮邦彦王邸となった。大正末期になり、賀陽宮恒憲王がここを賀陽宮邸として使用することとなり、賀陽宮は昭和20年3月の空襲による消失までここにお住まいになられた。

明治時代の千鳥ヶ淵付近の図

2.桜の名所・千鳥ヶ淵

戦没者墓苑に隣接する千鳥ヶ淵は都内屈指の桜の名所である。 桜開花の頃は、テレビでもその桜の姿を放映し何十万人もの見物客が訪れる。千代田区では夜桜見物のための照明を設備する他、見物客を誘導整理する警備員を配置して整理にあたる程である。 この桜は、昭和32年頃、千代田区が植えた染井吉野で、既に40年以上を経過している。桜としては老木になっているが、千鳥ヶ淵の水面にしだれるように枝を伸ばした姿は風格がある。この桜は、千鳥ヶ淵緑道からさらに英国大使館前まで続き見応えがある。この桜の名所千鳥ヶ淵緑道は桜の季節は勿論見事であるが、桜の時期以外にも折々の趣をもち、都民の憩いの場となっている。

この千鳥ヶ淵緑道として都民に親しまれている道筋は、寛永の頃(1630年頃)の古地図にすでに濠端一番丁として見られる古い道である。江戸時代のこの道筋は、自警のための辻番所が四カ所置かれただけの淋しい殺風景なところであった。この道筋には明治39年に路面電車が走ることになったが、関東大震災後の復興計画により靖国神社の大村益次郎像のところから南に走る内堀通りが完成して(昭和5年)この内堀道りに東京市電が走るようになり濠端一番丁を通る路面電車はその役目を終えた。

お濠としての千鳥ヶ淵は、江戸城を取り囲んだ内堀の一環として江戸城防衛のためのお濠であったことは勿論であるが、徳川家康は江戸城入城にあたってこの千鳥ヶ淵を飲料水確保のための用水として利用することも考え、麹町台地の4本の流れを堰き止めてつくったと言われている。江戸城を取り囲む内堀の中で、他のお濠は幾何学的な直線に形取られているのに対してこの千鳥ヶ淵だけが自然の地形そのままの湾曲した線を描き千鳥ヶ淵の名に相応しい優美な姿を保っている。

この千鳥ヶ淵は、半蔵門の北側から田安門まで続いた一つのお濠であったが明治33年頃皇居の北側を東西に走る代官町通りの西端を内堀通りに直結する工事でお濠は南北に二分され、二分されたお濠のうち代官町通りの南側の部分は半蔵濠と呼ばれるようになった。 内濠と呼ばれる濠は13のお濠で構成されているが、千鳥ヶ淵は半蔵濠と共にそれらの内濠の中では水面標高が一番高く15.98mとなっている。ちなみに、千鳥ヶ淵の水が流れ落ちる牛ヶ渕は水面標高が内濠のなかで2番目に高い濠であるが、その水面標高は4.17mとなっている。

桜の写真

3.千鳥ヶ淵周辺に住んだ人々

江戸幕府時代、現在の墓苑周辺は江戸城警護の旗本の「番方」に与えられた屋敷地や防火地帯としての空き地であったが、明治になり旗本達は徳川家と共に駿府に移ったことから、これらの屋敷地や空き地の大部分は収公された。この収公された土地の多くはその後民間に払い下げられたが、明治から現在に至る間に所有者は転々として現在に至っている。この間、現在の戦没者墓苑周辺には旧皇族を含め多くの著名な方々が邸を置かれたことがある。

当戦没者墓苑の敷地の地域には、閑院宮載仁親王が親王邸を新築され、後に久邇宮邦彦王、大正末期から昭和20年まで賀陽宮恒憲王がお住まいになられた。墓苑敷地の西側の部分(戦没者墓苑駐車場付近)には、徳川時代には由良播磨守の屋敷があったが、明治になってこの屋敷には明治天皇の初代侍従長徳大寺実則公爵が住んでいた。徳大寺実則公爵は著名な西園寺公望公の実兄である。またこの地にあった宮内大臣官邸には松平恒雄氏が住んだことがある。同氏は会津藩主松平容保の四男で、故秩父宮勢津子妃殿下の御父君である。

また、墓苑隣地の宮内庁用地には、昭和11年の2.26事件当時、侍従長として鈴木貫太郎海軍大将が住んでいた。明治6年頃、山県有朋が鍋割坂(墓苑北約100メートルにある小さな坂道)から北の地域の払い下げを受け、現在の農林水産省千鳥ヶ淵分庁舎の位置に私邸を建てた。この山県私邸は明治19年の大臣官邸として農商務省が購入し現在は分庁舎となっている。山県公が払い下げを受けた南の部分は何人かの手を経て、昭和26年、フェヤーモントホテルが開業したが、このホテルも平成13年に閉館し、現在高層マンションとなっている。

山県公が払い下げを受けた北の部分は現在のインド大使館あたりまで及んでいたが、このうち現在の九段坂病院の敷地あたりは山県公の縁故者の品川弥次郎が譲り受け、品川は明治10年頃からここに住んだ。品川は自分がドイツ公使に赴任中、柔道家の嘉納治五郎にこの屋敷の管理委託した。嘉納はこの地に明治19年~22年の間に道場を開き門人数は約1500を数えたと言う。品川は明治33年没するまでここ本邸とした。品川は晩年国民協会の領袖として政治活動に身を投じたが、今日では彼の名を知る者は少ない。鳥羽伏見の戦いの頃の官軍の応援歌「トンヤレ節」は彼の作品である。今は九段坂途中のお濠端に彼の銅像が大山巌の銅像と並んで建っている。品川の没後、品川の屋敷地は、佐竹義生候の所有を経て、医師福岡五郎氏に渡り、大正15年九段坂病院がここに建設された。この病院は昭和23年発足の国家公務員共済組合連合会の病院となっている。

濠端一番丁の図

4.鳩居堂と村田蔵六(大村益次郎)

靖国神社境内の大きな銅像の人物・村田蔵六(大村益次郎)は一時期、現在の内堀通り(当時の 新道一番丁)で私塾「鳩居堂」を開いていた。現在の戦没者墓苑の西側に隣接する所である。蔵 六が32歳の頃からであった。司馬遼太郎氏の小説「火神」によると、蔵六は安政3年(1856)宇和島藩主伊達宗城の参勤 交替に従って江戸に出た。当時はペリー来航後のこともあって外国事情に関心が高く、蘭学を学 ぼうとする者が多かった。しかし当時の江戸には満足できる程の蘭学塾がなかった。江戸に出た 蔵六は巣鴨にあった宇和島藩の小さな控え屋敷に住み着いていたが、この当時の時代の要求から、 オランダ語を通じて西洋の技術を学ぼうとする若者たちが蔵六の噂を聞いて次々と訪ねてきた。 このような事情から蔵六は塾の経営を思い立ち、宇和島藩主に私塾開設を願い出た。藩主はその 申し出を許し、蔵六に従来通りの身分と扶持を与えた。早速、現在の内堀通りに面した御家人 柴山某の屋敷を買い取り、ここに安政3年11月に私塾「鳩居堂」を開いた。 現在の戦没者墓苑の西隣である。

創設間もない鳩居堂では教授する学科の教科書は少なく、 例えば砲術の講義には砲術の教科書が1冊しかないような状態であった。塾生達は講義を聴く前夜にその関係部分を筆写した後、更に塾に1冊しかない辞書を使い文章の 大意をつかんで講義を聴くと言う繰り返しであった。鳩居堂では、オランダ語、物理学、生理学、 医学、兵学が講じられた。塾の評判は悪くなく結構繁盛したようである。間もなく蔵六は幕府の 蕃書調所の教授手伝(助教授)となり毎日出勤することとなったがこの間も塾頭の代講により 鳩居堂は続けられた。その後、蔵六の能力を必要とした長州藩は、蔵六に長州藩士になることを 懇請した。もともと長州生まれの蔵六はこの懇請に応じて万延元年(1861)長州藩士となった。 この長州藩出仕により蔵六は麻布長州藩邸の洋学講義所で兵書翻訳と講義をすることとなり鳩居堂は 閉鎖せざるを得なくなった。鳩居堂最後の入門者が文久3年(1863)となっているのでこの 鳩居堂開設期間は約7年間と言うことになる。

村田蔵六の銅像の写真

5.北の丸公園地域の変遷(代官町→田安家と清水家→近衛聯隊→北の丸森林公園)

北の丸公園は千鳥ヶ淵を挟んで戦没者墓苑と向かい合っている。この地域も時代の流れと共に大きく変遷している。 北の丸あたりは、その昔は田安台と呼ばれ田安大明神が祀られていたという。徳川家康が江戸に入ってからはこのあたりに代官、年寄、番衆等の邸宅が配置されて、現在の北の丸一帯は代官町と呼ばれた。明暦の大火(1657)ではこのあたりも焼けつくし焼け跡は殆ど空き地になっていた。8代将軍吉宗と9代将軍家重はそれぞれ自分の子に、ここに屋敷を与え田安家と清水家を興させた。吉宗がその子宗武に田安家を興させたのが享保15年(1730)であるので明治に至るまで約140年間この地には田安家と清水家の屋敷が置かれていたことになる。田安家と清水家は現在の北の丸公園をほぼ東西に二分する形で屋敷地が置かれていた。

田安家と清水家の屋敷地近くに田安門と清水門があった。田安門は、元和6年(1620)に完成したと言われる古い門であったが、明治3年に撤去され、清水門は翌4年に撤去された。その後それぞれ再建されて、昭和36年には両門ともに重要文化財に指定された。写真は慶応年間に外国人が撮影したという田安門。明治になり北の丸一帯は大きく変貌することとなった。

明治初期の兵制改革で近衛兵が制度化され明治7年1月に、近衛第1聯隊、近衛第2聯隊が編成されこの両聯隊の兵営がこの北の丸に置かれた。この両聯隊は昭和20年の終戦に伴い廃止されたがこの間約70年にわたり陸軍の代表的部隊がこの地に駐屯した。この近衛歩兵の両聯隊は日本陸軍最初の聯隊である。平時は皇居守衛の任につき、事変に際しては率先戦場に赴いた。現在、武道館南の林の中に「近衛歩兵第1聯隊跡」と「近衛歩兵第2聯隊跡」の碑がひっそりと建てられている。正に「つわものどもが夢のあと」の感が深い。戦後はこの一帯の建物に皇宮警察本部その他の機関が雑居していて、戦没者墓苑の候補地になったこともあった。

昭和34年10月の皇居造営審議会ではなるべく早く公園化をはかるべきとの答申により、北の丸を森林公園として整備を行うことになった。この地に、昭和39年の東京オリンピックの柔道会場として武道館が建てられ、八角形の屋根が森林の間に突出している。現在では武道館は、種々の催し物が開催される他、毎年8月15日の全国戦没者追悼式はここで行われている。

6.近衛師団司令部跡

戦没者墓苑東南方に千鳥ヶ淵を隔てて直距離約300メートル位の所に、赤い煉瓦造りの建物がある。 この建物は現在は東京国立近代美術館に所属する工芸館となっているが、元々は旧陸軍の近衛師団司令部として建設されたものであった。明治43年に陸軍技師田村鎮氏の設計によって建てられたもので、この煉瓦造りの建物は関東大震災にも、また戦災にも無事に生き残った強運の建物である。

北の丸が森林公園として整備されるにあたり、この建物は取り壊しの予定になっていた。しかし、明治建築が次々と姿を消して行く中で、このクラシックな建物は保存すべきだとする声が強くなり、結局、昭和47年10月に重要文化財に指定され、大修理して昭和52年に近代美術工芸館として使用されることとなった。現在、この近代美術工芸館は、工芸品及び工業デザイン等を展示して一般に公開されている。 この建物が近衛師団司令部として使用されていた頃、この近衛師団司令部を取り巻く悲劇的事件があった。昭和20年8月14日の所謂「宮城事件」である。

大東亜戦争の末期、戦勢は日に日に傾き昭和20年8月14日遂に終戦の聖断が下った。これに対して陸軍省内に、終戦を阻止してあくまで戦って後、天命を待つべきであるとする少数の過激派将校がいた。彼等は近衛師団司令部の一部の参謀とも通じて、終戦の玉音放送録音盤を奪いこの段階での戦争終結を阻止しようとした。彼等は東部軍司令官田中大将にこの実行への協力を求めたが、しかし田中軍司令官は強くこれを拒否した。軍司令官の同意を得られないと知った過激派将校グループは、14日夜近衛師団司令部に赴き師団長森中将に決起を強要したが、森師団長も軍司令官同様強くこれを拒否した。師団長の同意を得られなかった過激派将校はその場で師団長を殺害し、終戦の玉音放送録音盤奪取を命ずる近衛師団長の偽命令を作成して事を起こした。この偽命令は宮城警備中の近衛第2聯隊に伝達され、玉音放送録音盤奪取の為の捜索が開始された。15日明け方頃になって陸軍大臣阿南大将自決の報が伝わり、事を起こした将校達は、万事終わるとの考え方に変わり始めた。一方、この宮城事件の情報に接した田中軍司令官は、急遽、幕僚を帯同し現場に急行して、宮城警備に当たっている近衛第2聯隊の将兵に熱誠を込めて訓戒に務め、事件は漸く治まった。このようにして、8月15日正午の玉音放送は無事放送されることとなり、この事件の首謀者達は自決をして果てた。

この事件の鎮圧に務めた田中軍司令官も、8月24日に「将兵各位は、厳に自重自愛断じて軽挙を慎まれ・・・」の言葉を残して自決した。 終戦に際して、興奮と混乱の雰囲気の中で起きた事件ではあったが、何とも痛ましい事件であった。

7.2・26事件と侍従長官邸

昭和11年2月26日、我が国昭和史の大きな転換点とも言える大事件が起きた。世に言う2.26事件である。 青年将校20数名が決起部隊千数百名を率いて、彼等の目する「君側の奸」を襲い「昭和維新」を強行しようとした。この事件に際して、襲われた重臣は、総理大臣岡田啓介、内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎、元内大臣牧野伸顕、侍従長鈴木貫太郎であった。

これらの襲われた重臣の一人鈴木貫太郎侍従長の官邸は、現在の戦没者墓苑東門附近に隣接する敷地にあった。そして、侍従長官邸の表門は現在の墓苑東門方向に官邸裏門は反対側の鍋割坂に設けられていた。

この朝、麻布第3連隊の安藤輝三大尉に率いられた約200名の決起部隊は朝5時過ぎ侍従長官邸に到着し、正門と裏門の両方から官邸に押し入った。異常に気づいて起きていた侍従長を下士官が発見し至近距離から拳銃を発射した。侍従長は4発の銃弾を受けて倒れた。下士官は侍従長の喉元に拳銃を押しつけて、止めを刺そうかと指示を仰いだが、安藤大尉はそれを制止して、侍従長に敬礼を捧げ、5時半頃、隊伍を整え官邸を後にした。

この時の侍従長には、頭部、胸部、下腹部の各部に弾が命中し、医師が駆けつけた時には、脈はなく顔色は土色に変わっていた。しかしこのような重傷を受けた侍従長は、奇跡的に一命をとりとめ再起した。鈴木侍従長は、日清、日露の両戦役にも参加した歴戦の勇士で、大正年間に海軍次官、連合艦隊司令長官、軍令部総長を歴任の後、予備役となった。昭和4年に侍従長となり、この頃行われたロンドン条約に対する挙措をめぐり、この事件を首謀した青年将校達からは「君側の奸」と目された模様である。2.26事件の重傷から再起した鈴木元侍従長は、昭和20年には総理として戦争を終結に導いた。そして、戦後、昭和23年4月千葉県関宿町で病没されている。

参考文献:主として林泰助氏著「番町鍋割坂」